MAPO堂

最終決定は存在しない。

ドラクエ楽しかったな、最近は子供がドラゴンボールを読み始めています

あまりニュースも見なくなりましたが、鳥山明さんの特報を知ることになりました。

御冥福をお祈りします。

私の学生時代はドラクエ三昧

近所のお兄さんがやっていたのを羨ましげに見ていたのが、ドラクエIII

自分でファミコンでクリアしたのが、ドラクエIV

スーファミドラクエV, VI

VII, VIII は大学生でやってたのかな。アルバイトの給料で始めて買ったのがPS2だった気がする。 とにかく早くクリアすることに、夢中になっていた、なんてもったいない遊び方かと今は思うけど、楽しかったね。 攻略サイトのリアルタイムな更新を見ていくのも面白かった。

ドラクエIXはDSか、これは社会人になってやったのかな。有給取ってやってたかもしれない、残念ながらあまり記憶にない。

ドラクエXだけは未だにやっていない。これを機にやってみようか。

ドラクエXIは、子供に見守られながらやってたか。

いやー、こんなゲームすごいよね。ほんとに。

子供はドラゴンボールにハマっている

私もジャンプやら単行本で読んでいましたが、ドラゴンボールドラクエどちらも鳥山明という同じ人が書いていたって、子供ながらに衝撃を受けた記憶があります。

ドラゴン好きなのか、とか思ったのか思わなかったのか。もう思い出せない。

子供の話でした。

放課後クラブに漫画があって、ドラゴンボールを読んでいるそうです。

ポケモンとかあんまりストーリーがわからんですが、ドラゴンボールは何となく覚えています。

人造人間17号と18号が出てきているようです。

フリーザとかセルとか、ちょうど自分は小学生ぐらいだったかな、一番面白かったところかもしれません。

子供の頃のストーリーに没頭する気持ちが、今でも一番楽しかった思い出なので、 我が子にも、そのストーリーなどを楽しんでもらえたらなと思います。

まとめ

いろいろと思いが巡ることがあったので、ブログ記事にしてみました。

穏やかで刺激的な生活、文学的な上司

小説を読みましたので、感想というか気になった部分を残しておきます。

読んだのはこちら。

アルタッドに捧ぐ。

気になったところ

もしもあのニホントカゲが生きていたとしたら。やはりあれほどまでには少年を魅了していなかったのかもしれない。(中略)ぽつぽつと群がる赤色の蟻たちの蠢きは、死骸に悲劇的なモチーフを添えていた。その光景は、美しく稀有である者が、数において勝る卑しい者たちによって汚されていく光景として、少年の目には映った。

子供が夢中になって何かを見ている光景とダブりました。自分にもそんな時期があったのだろう。

アルタッドとの生活は穏やかなものでありながら、同時に刺激的なものでもあった。本間はアルタッドの一日の過ごし方に羨望を覚えていたのである。アルタッドは、過去も未来も孕まない、濁りなき現在を生きているかのようであった。(中略)日向ぼっこに耽り、光のなかで憩い、ただその場で安らぐことができるということ。それは紛れもなくアルタッドの才能であった。

SNSを離れて、少しずつ穏やかな生活を取り戻していきたいと思いつつ、なかなか。

タイトルに付けた文学的な上司という言葉も引っかかったところです。

本間は上司という言葉をめぐって思索する。彼女の言ったことはもっともだ。この地球にいる人間の半分以上が上司なんじゃないかと思えてくるくらいだ。そして実は、現時点の俺にだって、立派な上司がいる。観念的な、つまりは文学的な上司としての、過去の大作家たち。彼らは書店や図書館など、あらゆるところに存在していて、時には有り難い小言すらぼやく。その試みなら、私が遥か昔にやっているよ、等々。
「どこにだって上司はいるんだな」
「そりゃそうよ」

話は変わりますが、途中でメテオラの奇岩群の描写が出てきました。 私も昔、世界遺産の特集か何かで見て、すごいところだなと思ったものです。 一度は行ってみたいところの一つにしよう。

こんな感じのところです。

ja.wikipedia.org

worldheritagesite.xyz

あとは、愛知県の話も出てきました。 神奈川出身の著者の話にしては、唐突に具体的に感じた描写。 愛知県に友達がいたんでしょうかね。

アルタッドと共に修道院で生活することができたら、どれほど素晴らしいだろう。神などいなくとも、俺は祈り、歌い、死のことをなど考えずに暮らすだろう。俺は、アルタッドが光を浴びるときのように生きてみたいのだ。文章を書く必要など感じることなく、ただそこにあるものを享受するような生き方。もちろんそんな生活は、俺の空想癖の産物でしかないことは分かっているが、それでも俺は、空に聖域を散在させるようにして建てられた、あの修道院での生活を羨ましく思う。

なんか騒がし過ぎるんだよね。今の自分の周りの世界は。

良い本でした。

パン・オ・ショコラまた登場、なんか恒例になってきた

パン・オ・ショコラ三度(みたび)

夕暮れのキッチンは、やわらかな光に包まれていた。カウンターの上には、余った冷凍パイシートと、バレンタインセールで手に入れた板チョコが静かに横たわる。この家では、パン・オ・ショコラを作るのが、なんとなく恒例になっていた。

「やれやれ」と僕はつぶやきながら、昔のブログ記事を開く。前回のパン・オ・ショコラ作りは記憶を頼りにやったが、今回は何か違う。末っ子がキッチンに立っている。小さな手で卵を塗り、真剣な表情でパンを成形している。見ているだけで、心が温かくなる。

「今回は焼きすぎたらいけない」と、焼き上がりを見守る。前回は少し焦がしてしまったから、今回は慎重に。160度で20分、じっくりと焼いた。 焼けたパン・オ・ショコラは、まるで小さな太陽のようにキッチンを明るく照らす。

子どもたちはテーブルにパンを運ぶが、半分くらいこぼれてしまった。「まあ、予想通りだ」と思う。しかし、それがどうした。テーブルに着くと、子どもたちの手が伸びて、パンはあっという間になくなる。早いな、私が食べようと思ってコーヒーを準備した頃には、あと一つになっていた。私のために取っておいてくれたらしい、感謝して頂く。

窓の外では、夜が静かに降りてきている。キッチンには、まだパン・オ・ショコラの甘い香りが残っている。僕はコーヒーを一杯淹れて、窓辺に座る。今日もまた、小さな幸せが家族を訪れた。こんな日々が続けばいいと思う。

そして、ブログを更新する。「パン・オ・ショコラまた登場、なんか恒例になってきた」とタイトルを打ち込む。 キーボードを叩く指は、まるでジャズピアニストのように軽やかだ。 今日の出来事を、誰が見るともしれない情報の海に向けて発信する。 それが、僕の小さな抵抗だ。やれやれ、こんな生活も悪くない。

おわりに

with Chat GPT-4. 村上春樹風にこちらの記事を紹介してみました。

mapodou-garden.hatenablog.com