MAPO堂

最終決定は存在しない。

歩きながら考える、考えながら歩く。どっちだろう

こんな本を読みましたので、記録です。

「人は語り続ける時、考えていない」、河野哲也

思ったこと

子どもの哲学とは、大人が自分たちの生活を成り立たせている習慣、常識、監修、制度、機構に対して、社会活動のまだ準備段階にいる人間が、その根拠を検討するという知的営為であると定義できる。子どもの「どうしてか」「なぜか」という問いは、大人の習慣を組み立て直す機械を含んでいるのである。

これは結構思い当たりますね。答えられなくてめんどくさくなってしまうような質問、対話できていないと感じます。

「なんで土曜日と日曜日しか休めないのか」、「なんで児童クラブに行かないといけないのか」、いろいろと自由を制限することが出てきている様子。

読み進めてていくうちに思い浮かんだことのもう一つ。

哲学的な本にまた興味を持ち出していろいろ読んでいるのは、よく歩くようになったからかもしれない、ということ。

歩くこと、話すこと、考えることには、共通の構造がある。それは、ドロワによれば、「崩壊しはじめ」、「持ち直し」、「また始める」という構造である。たしかに、ある方向に移動するという推進と、それを実現するための足と地面との調整の連続で歩行はできている。マイクロスリップとも言うべき細かな失敗と修正を繰り返して、私たちは歩むのだし、考えることも話すことも同じような過程で進んでいく。この点にはまったく同意できる。ドロワは、さまざまな哲学者の歩行=思考の仕方を分析し、それぞれの哲学者の思想の違いは、その歩き方の違いに対応しているという興味深い説を展開している。

mapodou.hatenablog.com

特に何の目的も定めずに歩いたり、思索したりすること。

確かに相性がいいのかもしれない。